屋形船の歴史
屋形船の歴史は古く、その原型は日本最古の歌集「万葉集」で詠われています。屋形とは、元々日光や雨風をしのぐために作られた「苫(とま)」が発達したもので、平安時代以降、貴族の遊船、年貢輸送船、官船、商船と様々な船に屋形が取り付けられるようになります。もちろん貴族用の豪華な屋形と庶民的な商船用の屋形は目的が異なるために、現在とは構造や装飾も大きく違っています。
最初のお船遊びは醍醐天皇(898年)頃と言われており、以後この屋形船遊びは度々行われていたといわれています。それを昭和3年より車折神社が『三船祭』と称してこれを再現し、現在も営まれるようになり、現代の屋形船に繋がっていくのです。
屋形船がもっとも発達した江戸時代です。その理由として江戸は隅田川などを中心とした河、堀を使った水上交通が発達し、これによって江戸の文化・経済が栄えるようになります。江戸の経済・文化が熟するにつれ、武士や大名・比較的裕福な町民・承認が盛んに屋形船遊びを行い、その頃になると江戸武士に限らず、日本全国で屋形船が誕生し、各地で桜を愛でたり、俳句を詠んだり...と粋を 楽しむようになったといわれています。
屋形船自体も、徳川の泰平を象徴するかのように、豪華な屋形船が造られていき、最初は定員20名位と比較的小さな船ばかりでしたが、有力な大名などは自前の屋形船の豪華さを競い、屋形船は次第に大型化していき、川御座船と呼ばれるようになります。屋形船の大型化だけでなく、その装飾は豪華をきわめ、金・銀・漆・絵画などあらゆる手段で装飾し、当時の屋形船では芸者衆と遊ぶことが一般的となり、『其美筆紙に尽くし難し』とまで言われたそうです。屋形船の長さ11間幅3間部屋数10もある大型船はあまりにも華美すぎるので、幕府はついに屋形船の装飾や大きさに制限を加えはじめ、『遊山船金銀之紋、座敷之内絵書き申間敷事』ほど制限、禁令がでるほどであったと伝えられています。屋形船遊びは江戸幕府が倒れた後も庶民の間で「風流な遊び」として明治、大正、昭和初期、と続いて、屋形船は全国各地で親しまれてきました。
江戸の文化、経済が栄えることができたのは河、堀と呼ばれる水上交通によってです。例をあげれば塩の道、物資の道として小名木川、遊びへの道、吉原への道として谷掘、特に隅田川は江戸町民の自慢であり、常に浮世絵、文人の遊び、町民の遊びに必ず登場してまいります。そして武士、町民に限らず舟遊びを楽しみ、その一つとして屋形船が登場し、全国から集まってくる武士やその他の人々が江戸の文化、江戸の粋を楽しむようになりました。屋形舟遊びは明治、大正、昭和、と続いて楽しまれ、また親しまれています。
昭和20年頃、屋形船にも大きな転期が訪れます。昭和20年代、日本は太平洋戦争に敗れ、人々は屋形船を楽しむ余裕を失います。また近年に入り東京の河川は水質の汚れ、コンクリートの殺風景な防壁が築かれたことにより、屋形船はほぼその姿を消してしまいました。屋形船の復活はごく近年のことです。近年、屋形船のに注目が集まっていますが、その理由としては、屋形船の中にカラオケからLD、そしてコンパニオンを雇うなど常に時代に合わせて色々なサービスを取り入れていったことが上げられます。最初の頃は観光客など外からきた人が中心でしたが、今では地元の人々から社会人・常連さんなどが宴会用に屋形船を使うことが多くなっているようです。この「川に浮かぶお座敷」は今では多くの人達から愛され・利用されています。
>> 屋形船の大江戸
